上月城

別名− 付近住所 佐用郡佐用町下上月 現在−
碑・案内板アリ 日本城郭大系


上月氏→
赤松氏→
尼子氏
上月城は鎌倉時代末期(1300年代)に宇野播磨守太田入道山田則景の息、上月次郎景盛が太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。上月氏は景盛、盛忠、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移しており、之が現在の上月城跡で中世山城の様態をよく残している。嘉吉の乱(1441年)で赤松氏は没落し、播磨は山名氏の支配する所となったが長禄の挙(1458年)によって赤松政則が播磨を回復するも、右京太夫赤松政之が置塩城より上月城に入り、その子 赤松蔵人大輔政範は西播磨五郡十六萬石を領し西播磨殿と呼ばれていた。天正5年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一萬五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け123日、遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子供200人を串刺と磔にして備前美作、播磨の国境附近にさらした。今も地獄谷の名が伝っている。秀吉はこの後を尼子勝久、山中鹿之助に守らしめたが宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中、櫛田の山中で自刃したと伝えられる。再び、尼子勝久、山中鹿之助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三萬の軍勢を以って天正6年(1578年)418日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に本陣を進めたが三木城攻略の為、626日、高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に75日、勝久は毛利氏に降伏し開城、自刃した。山中鹿之助は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔、大谷義房が250回忌を営み慰霊碑を建立し山上に残されている。

尼子勝久追悼碑 
山中鹿之介碑

HOME